子どものいる風景

運動の苦手な子なんていない。その1 ~躓きの瞬間を見つける~

先日孫と近くの公園に行きました。孫を連れて遊びに行く時は、ブロックで遊んだり絵本も読める室内の児童室の方にいつも行きたがるし。4月までは近くの公園の門が閉まる時間が5時だったので、お昼寝から目覚めるともう行けなくなっていることが多かったこともあり、半年ぶり位でした。

5月からは7時までたっぷり遊べるので、お昼寝をして元気をチャージした孫と公園に繰り出しました。

とても広い公園なので、砂場もある少し小さい子向けのスペースと、アスレチック的な遊具のある小学生も元気に遊ぶスペースがあり、この子は今日どちらがお好みなのかなと聞くと、大きい子も遊ぶ方を選びました。

丸太と太いロープで造られた大きな遊具は、いろいろな方向からいろいろなアプローチをして登ったり、潜ったり、滑ったりできてたくさんの子たちがいます。孫はこの遊具に真っ先に走り寄り、階段を上ってロープで編まれたジャングルジムのような橋を渡ります。

その様子を見てあれっと違和感を感じました。ロープの橋は起伏がある上にゆらゆら揺れるので、簡単には前に薦めません。孫はそこでもたもたしているうちにロープの隙間に靴が挟まってしまい、さらに身動きできなくなってしまいました。ついに、進むのを諦めて元来た方へ戻ろうとしています。

この光景は、半年前にも見た覚えがあります。その時は結局私もジャングルジムの上に上がっていき、孫の手と足を支えてやりながら交互に動かして橋を渡らせました。半年以上も前のことなので、この難関はもうクリアできているだろうと当然のように思っていたのですが、彼にはできる気がしないと自分で思い込んでいるようでした。

できないままで諦めようとしているのを見て、ああこの子は結構慎重なタイプなんだなと気づきました。私は、長い間教師をしていたので、子どもの体の使い方や動かし方を見て、この子ならこれくらいはできる力があるだろうという推測は、割とできる方だと思います。孫の通常の体の動きを見ている限り、このレベルのアスレチックなら十分渡れるはずです。

冬の間にこのアスレチックを自分の力でクリアできていた経験を忘れてしまっていたか、先ほど書いたように靴が引っかかるなど、ちょっとしたトラブルにつまづき、自分にはできないと思い込んでいるのかもしれません。

人が今までにできなかった運動を新たに習得するときには、「ここだ。」という習得ポイントがあります。赤ちゃんが、ゴロンと寝返りを初めてできるようになった時から大人になるまで様々な動きを習得していくのですが、3歳ごろが一つの大事なターニングポイントだと思います。

赤ちゃんは何度寝返りを失敗しても諦めません。失敗という概念がないのです。できてもできなくても、体をゴロンゴロンと転がしてみる感覚が楽しくて仕方ないのです。何度もやっているうちに、ついに「ここだ。」ポイントを自然に習得して、いつでも自分の力で寝返りを打つことができるようになります。

大人が少し足を引っ張ってあげたり、腰を回してアシストすると、寝返りの習得が早くなるという傾向はありますが、一生寝返りを打つことを諦めるようなことはないのです。

けれども、3歳前後になると周囲の人との関わり意識が生まれてきます。それまでは、生活の中の活動のほとんどが、保護者との関わりの中で進んできています。けれども、公園や保育園には自分と同じくらいの子どもがたくさんいます。

2歳くらいまでは周囲に同年齢の子どもがいても、まだ社会性が芽生えていないので、一緒に遊んでいるのではなく、近くで同じような遊びをしているだけの活動が大半を占めています。

それが早い子では二歳半くらいから、友達との関わりのある活動が増えていきます。保護者が指示をださなくても、隣にいる子に自分が持っているおもちゃを貸してあげたり、「順番だよ。」と注意しなくても滑り台の順番を自分で守ってトラブルなく遊べることが増えてくるように、社会人としての一歩を踏み出し始めるのです。

そういった年頃の子どもが集まる場所では、体の大きさは一緒でも運動神経が早く発達した子や、何にでも物おじしないタイプの気質の子が優位に立つことが多くなります。

運動神経のいい子は本来のエネルギーがたっぷりある上に、体を動かしながら「ここだ。」ポイントをすぐに見つけて柔軟に体を適応させていくので、どんどんと新しい動きを習得していきます。物おじしない子は自分がやりたいことに集中して失敗しても気にせず、できるまで諦めないからです。

ここで私の孫の話に戻しますが、孫はちょうど6月で三歳になるターニングポイント期です。言語能力は人並み以上でよくしゃべり、言葉の表現力や集中力はあるけれど、体を動かしながらどんどん体の動きを習得していくタイプではなさそうです。

孫のような運動に関する要領がそれほど突出しているわけではないタイプや、控えめな気質の子たちは、遊具などで自分がうまく体を動かせずにもたついていると、同じくらいの体の大きさの子が後ろからスイスイと追い越して、楽々と楽しそうに遊んでいるのをみると、言葉には表せない非常に微妙な劣等感を抱きます。

以前までのその時できなくても活動そのものが楽しくて仕方ない時期を脱して、自分と他者を比較する能力が生まれてきている分、焦りや悲しみなど今まで感じたことのない感情を抱き始めるのです。

これが悔しくて抜かしていった子に追いつこうと発奮する子や、処理できない気持ちに対して泣いて駄々をこねることで表現する子は、保護者にとって、今この子は何か感じているんだなと分かりやすいです。

けれどもそういった表現をせず、何事もないような表情でその場でじっとしていたり、あきらめてしまう子の方が意外と多いのです。これは、よほど注意深く子どもを観察していないとそんな状況であることは保護者には見つけられません。

けれども、似たようなことが子どもの心の中で何度も繰り返されると、いつの間にか「自分は運動が苦手。」「○○だけは、できない。」という思い込みが生まれてしまいます。

私は小学校教師の経験はありますが、幼稚園・保育園などで児童を接したことはありません。けれども小学校の低学年でも、運動に関してすでに諦めの境地に達してしまっている子供を時々見かけました。きっと幼稚園までのどこかで、あきらめなければいけなかったことが重なって、失敗しても何度でもチャレンジして習得する子になり切れなかったのです。

小学校の各学年の体育授業のカリキュラムで取り組む内容は、その発達年齢の子であれば全員できるとみなされたことしか行いません。7,8割の子どもができればいいという事ではないのです。

にもかかわらず、怖くて鉄棒ができない子や、マット運動ができない子が必ず1,2割はいます。この傾向は年々増えてきているような気がしています。

こういう子たちには、全体指導の中で効率よく動きを習得させることは無理です。まず、怖いという気持ちを取り払うための、簡単で基本的な動きを繰り返すところから始めなくてなならないし、マンツーマンでその子に合った指導をしなければなりません。これは、指導者と子ども双方に多大な努力と時間が必要になってきます。

自分が小学校2年生の担任を持った時は、小学校の段階で身に付いているべき運動能力の基本に関して、手遅れになりかかっている子も存在することに何度も愕然としました。

もっとずっと初期のつまづきの時点で、保護者がそれに気づいて適切な補助や支援をしてあげれば、とても簡単にクリアできていただろうこともそのままになることはよくあります。そしてその後数年の内に、子どもの心を折れさせてしまっているのかもしれないと思うと心が痛みます。

孫と公園に行ったあの日、ほんの少しのつまづきに気づくことができたことは、本当にラッキーでした。あの日、具体的にどんな支援をしたのかは、第二弾で書こうと思います。

 

 

 

 

 

 

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