人は自分のために何かをするより、誰かのために自分の気持ちやエネルギーを注ぐ方が好きなのだと思います。
自分は家事をかなり手抜きして生活してきました。洗濯と乾燥は洗濯機と乾燥機がやる、掃除は多少の埃や汚れは気にしないという方針で、だれも文句は言わなかったので困りませんでした。炊事は、長い間実家の母と父に頼って、子どもたちを健康に育ててもらいました。一人目の子が生まれたときから四人目の子が中学3年になるまでの22年間毎日ご飯を準備してくれました。後半の11年間は、子どもたちが学校から帰ってくる時間に合わせて、毎日実家からご飯とおかずを持って、往復1時間の道のりを苦にせず我が家へ通ってくれました。大したものです。ありがたくて足を向けて眠れません。
私が妹と、その22年間孫の世話をし続けた話をしていて「自分はあんなに大変なことできないなあ。」というと「おばあちゃんはあの頃が一番楽しそうだったよ。みんなのために丁寧に栄養のあるご飯をつくると、おばあちゃんのご飯は世界一と言われ、孫の幼稚園の送り迎えをすると、他のお母さんたちにおばあちゃんおしゃれですねって言われるのが何よりも嬉しそうだったよ。人生で一番輝いている時だったんだよ。」と言いました。戦争で青春を奪われ、結婚後父の仕事で苦労してきた母にとっては、何の心配事もなく無心に孫の世話ができることは、幸せなことだったのかもしれません。
誰かのために何かをすることは、自分を幸せにすることでもあるなあと母を見て感じます。ただ、心配事が少なくなり孫も面倒がかからなくなってくるとともに、母の認知症は進んでいきました。そんなおばあちゃんをみてきているうちの子たちは、やたらと私がぼけることを心配します。今、仕事を辞めて誰かのために働くことを楽しんではいますが、体と頭の健康寿命が一緒であり続けるために、純粋に自分を喜ばせるために、自分のために何かをしていかないといけないなとも思っています。