知立は江戸時代には、東海道五十三次の39番目の宿場町池鯉鮒(ちりゅう)として交通の要所でした。知立神社では、昔から毎年祭礼時に数台の山車が繰り出し、山車の上で人形浄瑠璃が演じられてきました。
1807年に江戸で、曲亭馬琴による鎮西八郎(源為朝)が主役の有名な読み物「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)が発行され話題となりました。そのわずか三年後には、その知立神社の山車で人形芝居になって演じられた記録があります。
当時の流行がいかに早く全国に行き渡ったか、知立は地方の流行最先端発信を担っていたことがよくわかります。
一方、薩摩藩の支配下に置かれた琉球は、幕府将軍の代が変わる度に行われる朝鮮通信使と同じように、琉球からも祝いの派遣団が江戸に向かい、知立も途中の宿として通過して行きました。
知立にある無量壽寺には、長線(ちゃんせん)という三味線や琵琶のような琉球の古楽器が遺されています。現存するものは、徳川美術館とこの寺だけで貴重なものです。
おそらくは、琉球使節団が残していったものだろうと推測されますが、正確な手掛かりは残されておらず謎なのです。
そこで、地元の芸術創造協会が、演出家や人形浄瑠璃文楽座との共同制作で、知立と沖縄を結ぶオリジナル新作文楽を作ろうという事になったそうです。
一昨年、昨年、今年の3年間で完結する3部作の作品で、今年は上の巻(琉球使節の段)が上演されました。
今年の演技は、更に第一部と第二部に分かれています。第一部「或る楽童子の母の手紙」は、番外編として女優の小林祥子さんの一人語りの形で演じられます。琉球使節団に送り出した息子恩五郎への想いや息子が突然消息を絶ってしまったことへの心配が語られています。
第二部は「おさき玉城(たまぐすく)恋の八橋 琉球使節の段」で、人形浄瑠璃の形で演じられます。恩五郎は長線の技を磨き、琉球使節団の楽童子に選ばれますが、母が重い病にかかっていることを知り、使節団が江戸へ出発する前日に団を抜け出して見舞いに行くという内容です。
知立の義太夫会や山車文楽保存会の方々は、毎年行われる祭りでの上演に携わってみえますが、更に文楽座の方々の高度な技術指導を受け、舞台上での演技は素晴らしく洗練されていました。
人物の微妙な心情を、人形の体や手足一つ一つの動きに伝わるように演じていて、顔は全く表情を変えないのに、喜怒哀楽を見事に演じ分けるのです。
こうしてじっくりと人形浄瑠璃を見るのは初めてだったので、とても奥の深いものだなあということがよくわかりました。
自分は今回友達に誘われるまで、この知立での人形浄瑠璃の存在を知りませんでした。第一部で語られていた内容だと、どうやら恩五郎は池鯉鮒宿で重い病にかかり、地元名士の娘おさきに看病されて瀕死の状態からようやく抜け出せたというくだりがありました。
おそらく昨年上演された「池鯉鮒の宿対面の段」では、そこでおさきと恩五郎は恋に落ちて……という展開になっていくのでしょう。3年間続けて見ていたら、どんなストーリーなのかが分かったのになと残念に思いますが、またいつか上演されることを願っています。